C・G・ユング 心理療法
心理療法の基本は、治療者と患者の相互的人間関係にあることを、スイスの分析心
理学者カール・グスタフ・ユングは第一に強調する。それは「一種の弁証法的過程」
であり、この過程において、「治療者は、もはや患者にまさる賢者として、判定した
り、相談したりするのではなく、まさに一個の協同者として、個性発展の過程の中
に、患者とともに深く関与していくものである」。
そして、この過程が何によって導かれてゆくか、という問いに対して、彼は、「わ
れわれは自然を一つのガイドとして従ってゆかねばならぬ。つまり、患者自身の中に
ある潜在的な創造的可能性の道に従う」べきであると答える。そし
て、この過程が、単なる解釈や理論にとどまらず、「まさに、それを経験することが
もっとも重要である」ことが強調される。
右に簡単に述べた点において、ユングの心理療法に対する基本的態度の重要点が述
べられていると私は思う。つまり、①患者と治療者の人間関係、および②その関係に
おける治療者の人格の重視、③患者(人間一般)についての潜在的想像性に対する信
頼、④真の経験の重視、の四点である。
このように述べると、アメリカの臨床心理学者ロジャーズの影響を多く受けた人
は、その共通点の大きいのに驚かされるかもしれぬ。表現法は少し異なるが、③はロジ
ャーズの第一の仮説といってもよい。④についてはいうまでもない。
ただ、②において、ユングが治療者の人格を大きい問題と考え、治療場面におい
て、治療者は、よりとらわれることなく、自由にいきいきと行動することを重視した
点が、ロジャーズのはじめに唱えたいいわゆる非指示的な点と異なるといえば異なって
いる。しかし、この点も最近では、むしろユングの考えている線の方に近く修正さ
れてきたとみていいのではないかと思う。
この点は、もちろんフロイト派とも異なっており、実際ユング派の分析を受けたと
きに、患者がいちばん強く感じることではないかと思う。もちろん、このようにいっ
ても、ロジャーズが自己実現の考え等を含めてユングの影響を受けているとという気は
毛頭なく、むしろ、アメリカの心理学者ホールらのいうごとく、間接的影響とという点
においても立証しがたいものであろう。ともあれ、これらの点をユングが
早くも1930年頃に指摘していることは注意されてよいことだと思う。
また、容易に認められるごとく、右の諸点は、フロイトの方法に対する批判として
提出されてきたものであり、これらの諸点が、いわゆるフロイト左派といわれる人た
ちの発展に関係していることも、すでに指摘されているところである。
さて、右に述べたことをもう少し詳しく述べてみる。患者が分析家の所へく
るときには、、実際問題としては、その内的、外的な条件に寄って、必ずしも同じ目的
をmっているとは限らない。それは、単に、何らかの序言を求めるだけのこともあろ
うし、深く、自分の人生観の根本問題に及ぶこともあろう。
それには程度の差のあることを認め、ユングは一応、九段階に分類してみている
(分類23)。したがってこれに対する治療者の役割も、おのずから異なってき、治療の
過程も異なることであろう。
これと人間心理の複雑さが相まって、おのおのの心理療法家が一つの理論を打ち立
て、それがおのおの、ある程度の成功を博することになる。そして、それらはお互い
に敗訴しあったり、一見して矛盾しているごとく見えたりしながら、すべてが一面の
真理であるということも大切である。しかも、それがすべてをつくすものでないこと
も同様に大切なことである。
ユング派は、これらの心理療法を大別して「告白」「解明」「教育」「変容」の四つに
わけた(文献11)。「告白」はもちろん、いわゆるカタルシスの方法を重要視するもの
である。
しかし、この方法のみでは解決がつかぬことが明らかになったとき、次の方法が登
場する。これは主にフロイトに負うところが大きいことを、ユングはつとに認めてい
る。すなわち、彼による転移減少などの解釈の方法である。神経症の原因を因果律的に
「解明」し、その原因を探りあてることによて治療するわけである。
このフロイトの方法によって多くの症例が解明され、治療されたことは事実であ
る。しかし、これに対し、フロイトから離別して独自の心理学を打ち立てたアルフレ
ッド・アドラーはまったく異なった立場を強調して反対した。
フロイトの性欲説に対し、彼は権力への意思を第一の動因と考え、フロイトの因果
的説明に対し、目的論的な説明を重んじた。フロイトにとって、過去の経験の結果と
して説明されるべき神経症の症状は、彼にとっては、患者の未来に対する一つの目的
をもった設定と考えられる。
これによって、彼の方法は、より社会との連繋を重んじ、教育的な方法に強調点が
おかれることになった。患者の社会的に教育することの必要性を認めたわけである。
すなわち、これがユングのいう「教育」の方法である。
ユングは、この両者の方法に反対はしない。どちらもきわめて有効であることは、
彼が繰り返し述べているところである。一つの事象に対して、このように異なった見
方の生じるのは、人間の人格型の相違にあると考え、彼はフロイトは外向的、アドラ
ーは内向的な型に属していると考える(文献23)。そして、これらは排斥しあうより
も、相補うべきものと考える。
実際に患者に当たるときも、単にその過去の経験にさかのぼって因果的に説明する
のみならず、アドラーのいうように、将来に対する目的をもったものとしても理解し
なければならない。すなわち、過去も未来も背負ったものとしての現在の意義を強調
しなければならぬと考える。
さて、右のようにして説明することができればよいが、治療者にとっても、患者に
とっても、右のような説明では扱いきれぬ場合が存在することをユングはしてきする。
その多くの例は、人生の後半において現れるものであるが、これらの人はむしろ人
生の成功者であったり、社会にもよく適応している人が多い。しかし、逆説的にいえ
ば、その正常さこそが、この人にとって問題だある。むしろ、原因は「患者が平均以
上の何ものかを有している」ためといっていい場合さえある。
この場合、一人の人間を前にして、治療者にとってなしうる最良の方法は、むしろ
「あらゆる先人見を取り去って」人間対人間として相対することよりほかに
ない。このような場合の治療過程をユングは、「変容」と呼んでいる。だからといっ
て、先入見が無用というのではない。捨て去るべき先入見(理論といっていいと思う
が)ももたずに患者に当たろうとするのは無謀といっていいかもしれぬ。
心理療法の場面において、常に存在する二律背反性について、彼は、詳しく述べ
ているが、彼の説を難解ならしめ、あるいは誤解させる一つの原因は、彼
が理論の一面性を嫌い、一見矛盾するようなことでも、それを自分の説の中に包含
し、逆説的に述べてゆく点にあるように私は思う。
たとえば、右の例であれば、先入見は心理療法に必要であり、しかも不必要である
といえる。さて、このような状態においては、治療者はもはや、レディーメイドの理
論や説明を与えることができない。
ここにおいて、ユングに従えば、「自分の意識が、何らの可能な方法を見出せぬと
き、つまり行きづってしまったとき、自分の無意識がそれを打破すべく反応するだ
ろう」(文献10)。そして、これは、必然的に患者の無意識の所産である夢の分析へと
重点がおかれることになる。
この無意識の概念をを認める点がもちろん、ユングは、ロジャーズと異なっており、
この点において、両者の方法も非常に異なってくるわけである。
夢の分析については後に述べるが、この段階において大切なことは、夢というもの
を一つの媒介として、医者と患者の人格がぶつかり合い、両者ともに変容をとげるこ
とである。治療者の人格がいかにこの場面において重要視されるかはすでに述べた
が、本当の意味で、治療者の人格も患者の影響を受けて変化するのでなければ、患者
に影響を与えることは不可能であるとさえいっている。
この点において、分析家になるためには、教育分析を受けることが必要であること
を最初に認めた彼の功績は非常に大であるといわねばならない。すなわち、この段階
においては、治療者自身が自分の心理的問題を多く未解決でもっていたのでは、まっ
たく動きがとれなくなってしまうからである。
まさに、「治療者が信じている治療法を、その治療者自身に向かって適用されるこ
とが要請されるのであり、しかも、それは患者に向けられると同じ厳しさと徹底性と
忍耐をもってなされなければならない」のである。
上に述べた考えを根本として、分析が行われるのであるから、容易に推察される面
もおおいが、技法について少し述べてみる。
前述の態度から考えて、いわゆる診断がそれほど重要と考えられていないことも当
然である。もちろん、患者に対したとき、神経症か他の精神病か判断がつかぬようで
は困るが、神経症であれば、それがどんな種類の神経症であるかを診断するよりは、
むしろ、その心理的な面(ユングに従えば、コンプレックス)について知る方が治
療に役立つのである。
そして、このコンプレックスは、臨床的な症候によって明らかにされるよりは、む
しろ隠されている方が多いくらいであるから、とくに診断名をつけてみても何ら意
味のないことが多い。それに本当のところ、「真の心理的診断は、治療の最後にのみ
明らかとなる」性格のものであるから、新療法家にとっては、できるだ
け診断について知らない方が、むしろ有利である。
少なくとも病気が心理的なものと、はっきり知るならば、前もって何も知らぬほう
が、心理療法はやりやすい。おきまりの方法で患者を理解してしまうことほど危険な
ことはないのであるから。
それに、一つの方法が、ある神経症に有効であるかのごとく見えることがあっても、
その方法は、その病気にではなく、その患者にとって有効であったということが多いの
である。だから、診断的な枠組みをもって患者に対しても殆ど無益なことが多い。
患者にたいして、その原因を過去の事実から説明しようとする方法は常に有効とは限ら
ないと考える点において、ユング派は、それほど大きい重点を過去の生活史におか
ない。患者が現在、
それを問題にするという点において、それは重要になるが、すべ
ての問題が幼時の経験へとさかのぼって関係づけられるとはかぎらない。