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夢は人にとって、どんな役割をしているのだろうか。よく眠れるように夢を見るという見解もあるのですが、しかし、どうにも嫌な夢もみるし、強烈な自己否定の夢を見る訳だから、夢見が悪くても、よく眠れるように夢が在るとはいえない。また、夢見が悪く起きてしまうところは、正に反対の減少です。

では夢は何故みるのだろうか。ユングは次のように考えました。私たちが起きて活動しているのは、意識、自我などに光が当り、考えたり感じることをしている。しかし、これはひとの反面でしかないという。あとの半分は、夜も静まり、横になって、眠っている間、昼間は思いもしなかった、暗闇に動きが出始める訳です。簡単に云うと、無意識が活動を始めるのです。この両方を生きて、一つの生活や人生が進んでいると考えるのです。

 

ユングに云わせると、昼間の意識は反面を生き、もう反面は無意識と合一して、全体となる次第です。弁証法でいう、正反合といったことになります。ユングは常に対する2つの極を考えています。その合一から更に正反合となって、より上の高みにいたり、それは深みということを意味する訳です。

 

もとに帰って、夢は眠れるようになることも必要ですが、もっと自己理解に役立ち得るわけです。ユングは意識が画一化した時、その補償作用が働き、夢はそれのためにある、と言ってます。また、フロイトは、夢は無意識を知るための王道であると言いました。そのフロイトによりも、ユングの方が、夢を重要視し、夢分析を発展させています。フロイトは、日常的な、言いまちがいなども、無意識に支配されていることも、発見しています。無意識を意識的に発見し、発展させたのは、フロイトですし、ユングもそのひと独特の発展のさせ方をしています。

 

夢に関心を持ち、無意識に耳を傾けようとすれば、夢はやってきます。先ずは夢に関心をです。

自分でも知らない、自分が現れてきます。さあ、夢をみましょう。そして、記録しましょう。すると次のようなことが判ってきます。

夢は、劇的構成で出来ていることが判ります。

 

(1) 場面の提示

(2) 発展

(3) クライマックス

(4) 結末

と、しかし、全ての夢がこういう風ではないですね。

 

(1) 場面の提示で、例えば机しか見てなくて、他は忘れてしまう場合なんていうのもあって、その机が妙に記憶に残って、また、新鮮さがある場合なんていうのもあります。とすれば、この机についての連想してみる価値はある訳ですし、また、何故これだけが記憶に残るのか、その意味を考えてみるのも手でしょう。ショーペンハウエルは、「夢においては、だれもが自分自身のシェークスピアである」と言ったそうです。正に言い得て妙とはこのことではないでしょうか。

 

さて、夢分析に入りましょう。

前に夢を記録しておく、といいました。

その夢を再度見直して、どいうことだったのだろうか、と思案してみます。

 

リンゴを貰う夢を見たのなら、夢にリンゴが出てきたけれど、どうしてなのだろうと考える訳です。リンゴについての連想をしてみるのも手です。

夢分析において、ユングは主体的水準と客観的水準の、二様の解釈があることを指摘しています。

経験的に言って、夢がむちゃくちゃ出て記録もたいへんなクライエントさんがいたけれど、出すぎるのも問題があると思う次第です。つまり、そのひとつの夢を分析していることが多いのに、全部の夢はあつかえないのが現実です。しかし、目は通しますが。

それをやっていると、次第に、困っていた、主訴は、いつのまにか、消えていることがあり、当人も、終結の話をします。

主体的水準というのは、登場人物、ものに、自分がある、というやり方です。男性の夢見者のところに、男の人がいたり、その人物になり切ってみるところが主体的水準といいます。主体的水準というのは、外から眺めるようにして、見る訳です。