C・G・ユング 影
ユングの「影」の概念を説明するために、まず、夢の例をあげてみよう。ユングがこのような考え
をもつに到ったのも、多くの夢について研究を重ねた結果のことなのである。はじめに、簡単で解り
やすい夢をあげる。夢をみた人は独身の若い女性である。
夢 友人のAは私のボーイフレンドから手紙をもらったという。私はボーイフレン
ドから手紙がこず心配していたので、私にこずにAに来るはずがないと思う。しかし、Aは自分
が貰うのが当然という顔つきでいる。
ここで、夢に対する連想を聞くと、ボーイフレンドからは最近手紙がこず心配しているところであ
る。Aはもちろん彼から手紙を貰うようなことはあり得ないが、夢があまりにも現実的な感じだった
ので念のためにAに確かめてみたが、そなことはないという。Aの性格については、何事に
つけても自分と反対である。自分はテキパキと割り切ってするのが好きだが、Aはぐずぐずとして
いつでも自分と反対である。自分はテキパキと割り切ってするのが好きだが、Aはぐずぐずとしてい
る。言うならば自分はドライだがAはウエットな方である。などと語る。その言い方から察するに、
Aの人生観、生き方などについては相当批判的な感じをもっているらしい。このような場合、夢に出
てきたAを、この夢を見た人の影のイメージであるとユングは考える。
人はそれぞれその人なりの生き方や、人生観をもっている。各人の自我はまとまりをもった統一体
として自分を把握している。しかし、一つのまとまりをもつということは、それと相容れない傾向
は抑圧されたか、取り上げられなかったか、ともかく、その人によって生きられることなく無意識界
に存在しているはずである。その人によって生きられなかった反面、それがその人の影であるとユン
グは考える。つまり、この夢に出てきたAは、本人の生きなかった反面をあらわしている。
夢の意味するところは何か。それは「あなたよりもAの方がボーイフレンドと親しいのではないか」、
「あなたの影を通してボーイフレンドとつながってゆくことが大切ではないか」というふうに考えら
れる、つまり、今までの生き方にAのような生き方を少し付け加えてゆくことが、ボーイフレンドと
のつながりをスムースにするのではないかと考えられる。しかし、ここでボーイフレンドを現実のボ
ーイフレンドと考えるか、あるいはAを現実の人と考えず、本人の影の部分とみたように、より内的
なイメージとして考えるかという問題が生じてくる。アンデルセンの物語にも示唆されるように、つ
まり学者の夢が「詩」という女性に会ったように、影の背後に存在する異性像の問題は非常に重大な
ことである。この点については後述するとして、このボーイフレンドを内的な像としてとるならば、
この夢の意味は、Aのような影の生き方を取り入れることによって、自分の心のより深い部分とまじわ
ることができるという解釈も生じてくるであろう。ともかく、この夢は、自分の生き方と相反する傾
向をもつ影の象の存在と、それを通じてこそ人生の意味を深めることができることを示している点で、
非常に解りやすく典型的で、分析の初期にはよく生じる類の夢である。
次にもう少し複雑な夢を示そう。これは大学に勤めている中年の男性の、やはり分析の初期にあら
われた夢である。
夢 XX会館の一室のようなところで研究会の相談をやっていた。そこへ三人ばかり与太者風の学
生が現れ「自分たちも入会させてくれ」と言った。私はこの会は少数の特定メンバーの会である
から駄目だと自分は思う、と言い、横にAさんがいたので「他の皆さんの意見を聞いてほしい」
と言った。結局、私の意見を了承して立ち去った。その後そばにいた若い二人が「Bさんなら、あ
あはっきりはことわれないな」と言うので、「いったい彼らは何者かね」と聞くと、「有名な学内ゴロ
ですよ」と言った。私は残務を片付けながら「この分では私の帰りを待ち伏せているかも知れないか
ら抜け道を通らねばならぬな」と思った。そこへ三人はまた現れて、彼らは卵子丼を注文してそ
こで食事を済ますつもりらしかった。彼らは三千円くらいの金を出して「あなたの考えは一応了承
した。だがこれを会費としてではなく寄付としてでもよいから取っておいてくれ」と述べた。私は
「ご厚意は有難いがそれもあずかれない。とにかく会自体がまだできていない段階で、これから会
の設立の準備会をやる段階だから」と押し問答しているうちに目が覚めた。
この夢は登場人物がすべて男性である点が特徴的である。まず、研究会の相談中に現れた「三人
ばかりの与太者風の学生」というのが、影のイメージと考えられる。ここで前の夢の場合はAという
個人として影が現れたのに、ここでは不特定の人間として現れてきた点に注目しなくてはならな
い。これは前者の場合、自我が問題としなければならな影の側面について、相当具体的に表現され
ていると考えるべきであり、Aという人物についての連想によって、解釈を豊かに具体的にすること
ができる。それに反して、この夢の場合では、この影が集団で生じてきていることは、夢を見た本人
の生きてこなかった反面というのみではなく、集団として、おそらくこの場合では研究会を作ろうと
集まって来ている人たちの共通の影ということができる。つまり、この研究会のメンバーは「与太者風
の学生」を共通の影としている。
ところで、この影達は研究会への入会を希望している。これは「影の要請」ともいうべき現象であ
り、影はこのようにして自我への「入会」を要請するものである。これに対して自我はそれを拒否し、
他のメンバーも賛成したようである。しかし、影達も立ち去った後で、若い二人(この場合も誰か不明の人物である)」が、「Bさんなら、ああはっきりはことわれないな」と言う。このあたりから自我の影の存在に対する怖れの感じが生じてくるし、「Bならばどのように応対しただろうか」という迷いも生
じている。この場合のBは、影のイメージのなかで自我に近いものと考えられる。つまり、影は無限
の広がりをもつものであるが、そのうちのある側面を自我が具体的にイメージとして把握したものが、
いろいろな影の象として出現すると考えられる。そこでは、Bもひとつの影(夢には登場していないが)
であり、それはより深い影とのつながりをもつ仲介者になるのではないかと推察される。
自我の迷いが生じたところで、三人の影達は再登場する。それが玉子丼を食べているというのは何か
ユーモラスな感じを与えるが、意味は不明である。ここで少し横道にそれて、夢の解釈という点から
一言述べておこう。彼らが玉子丼を食べたことの意味は不明であると述べたが、この点については夢
を見た人について連想を聞いてみたが、とりたてて意味のある結果が得られなかったのである。この
ように夢の内容について、分析者も被分析者も努力を重ねても意味が解らないことはよくあることで
ある。これは夢の生じてくる機制から考えても当然のことであるが、その解らないままのことをずっ
と心に留めておくと、大分経ってから、時には数年後になって、その意味が解ることもある。このよ
うな観点からすれば、解らない夢を無理に説明し去るようなことをせず、不明なものは不明なものと
して心に留めておくことが大切だと思われる。もちろん、ここでも玉子丼ということにこだわらなけ
れば、彼等が食事をしたということは、影がエネルギーを獲得し、自我の迷いに乗じて再現してきた
と言うことはできる。また、玉子丼を食べているということに何かユーモラスな感じを受ければ「影
と言っても、われわれと同じくありふれたものを食べているんだから」というわけで、影との接触に
余裕が生じてくるかもしれない。知的な「解釈」のみではなく、このような夢に伴う感情の流れも大
切なことなのである。
つまり、影とは生きられなかった分身ということがいえる。ただし、そのままにしてはいけない、内面化することが大切だ。