自我
ユングは、こころの地図を描くに際して、フロイトのいう自我を自分が考える自我の位置づけの違いを示すのに苦心しました。ユングは、自我を意識の中心と考えたが、人格全体からすれば、劣等、不完全で、限界を有しているとも強調しました。個人的な同一性、人格の維維持、時間的連続性、意識と無意識の領域間の調停、認識、現実検討などに自我はかかわるけれど、より上位に位置するものの要求に応答する存在ともみなさねばならないのです。この上位存在が、自己、つまり」人格全体の秩序原理です。自我に対する自己は、「運動体に対する動因」の関係に比すことができます。
自我は、最初は自己と統合しているが、後に分化します。両者の相互依存性についてユングは触れました。すなわち、自己はより全体的な視点をもたらし、最上の位置を占めるのですが、その最上位の要求に挑戦し、実現するのは、自我の機能です。
ユングは自我と自己の対決が人生の後半期に特徴的であるとしました。
ユングはまた、子どもの身体的制約と環境世界の現実との軋轢から、自我が生じると考えました。欲求不満に促され、細々と孤立した意識の断片が結びつき、厳密な意味での自我になります。フロイト初期の考えにユングがつねに依存しつづけたことの反映が、自我の出現する時期に関するユングの考えの中にみてとれます。
ユングの主張では、3歳か4歳の時期に、自我の出現は明確になります。現在では、知覚組織の要素は少なくとも誕生時から存在し、一切の誕生日を迎える前には、比較的猥雑化した自我構造が活動していると、精神分析家も分析心理学者も認めています。
ユングは自我と意識を同じものと考える傾向があったため、防衛のような自我構造の無意識な誠側面をうまく概念化できない。意識は自我を自我たらしえる特性ですが、これは無意識性と相関します。。事覚、自我ー意識の度合いが大きくなれば、その分、未知のものを感知する可能性も高まります。影に関する自我の課題は、影を投影によって切り離すのではなく、認知し、統合することにあります。
ユングは分析心理学を自分の本性も含め、その人にとり自然な世界から自身を、孤立させ、そのことで自分自身を制約する過度に合理的、意識的な態度にたいする反応として生まれた学問と考えています。一方、夢やフャンタジー・イメージは、そのままでは生を高めることに利用できないとしています。すなわち、それらは一種のなまの素材、象徴の源泉であり、意識的な言語に翻訳され、自我によって統合される必要があります。この作業で、超越機能が対立を結びつけます。自我の役割は、対立するものを区分し、その緊張に抵抗し、対立するものを解消させ、結局、そこから出現しようとするものを保護することにあります。これによって、かつての自我の限界は、拡張し、高められます。
精神病理学的にみて、自我の危険性がいくつか挙げられます。(1)自我が、自己との原初的な同一性から離脱しないため、外界の要求に応えられない。(2)自我が自己と等しくなり、意識の肥大にいたる。(3)自我が硬直した極端な態度をとり、自己との関係を変性し、超越機能による態度移行の可能性を無視する危険性があります。(4)緊張が発生したため、ある特定のコンプレックスと、自我が関係を結べなくなることがあります。このため、このコンプレックスは分離し、個人生活を支配するようになります。(5)自我が無意識から発生した内的内容に圧倒される可能性がある。(6)劣等機能が本統合のままにとどまり、自我の自由にならず、著しく無意識な行為をとり、人格が全体的に貧困化する可能性があります。