数と夢分析
数の夢を見たらどうするか?簡単ではない。拘る人もいる。例えば、(/)は嫌だとか。(5)が中途半端だとかがそうである。また、(4)は死ぬとなり(9)は苦しむとなって、(4)や(9)を拒否する人もいる。病院では、(4)号室とか、(9)号室は書かないことになっている。最近は、号数を書かない病院も多くなっている。嫌がる数とは、当人に嫌な想い出がある場合が多い。自分の例では、十二歳の夏に、交通事故に合っている。こう明確に、苦しまなくても想い出せる。と言って、(12)が嫌な数字かというと、そうでもない。では何故嫌いな数字があるのかというと、コンプレックスに感じている場合がある。
交通事故は、ショックな事ではあっても、嫌にならない。これに、たとえば、好きな女の子が、転校していったとか、肉親の誰かが、死んだだとか、なにかしら、嫌な思い出が、絡んでくると、嫌いな数ということもある。嫌な事柄が重なると、こうなる場合がある。
夢で数学を見たら、どうするのかは、例えが、(123)を見たとしたら、それに関する連想とか、思い当たる節があるかを聞く。全くわからなければ、逆に321としてみて、思い当たることもなければ、(1)と(2)と(3)とに分けて、足してみる。(6)となるが、これはどうか、と聞くと、6才の時に、両親が離婚して、悲しかったとか、6年前に子供が出来たのだけれど、今では、夫婦関係は、冷たいものになっているとか。6年後には、定年になり、どうするかを、考えている。などとが出てきた。これ等は、当人、夢見者の側に頼るしか仕方のないことである。
夢は常に夢見者側を中心に廻。これは、どんな夢でもそうで、夢は、夢見者のものである。夢見者の言葉、発言をよく聴かなければ成立しないものだ。これは、重要な事柄である。これらは、簡単に解ったけれども、実際は、そうはいかない。もっと複雑で難解なものである。なかなか、旨くはいかない。しかしながら、夢見者に寄り添いながら、それ等を味わうことが大切である。
夢をあじわうと言うが、正に味わうのである。塩っぱいとか甘いとかがあるように、それらを味わい乍ら、夢見者とくりかえし、繰り返し、味わい尽くすようにする。これが大切な事と思われる。と同時に限定的、現実的な事柄も話し合われる。この行きつ戻りつが飽くことなく繰り返される。それが夢分析であり、夢占いや、夢判断と異なる、大きな点である。
夢見者と分析家との共同作業ではあるが、あくまで夢は夢見者のものであると、繰り返し述べたい。夢は夢見者と共に語られ、話し合われる。
夢は独り歩きをしない。