心理学 浦 光一 道具的人間関係 8
道具的人間関係
最近の若い人たちの自立志向は相当なものです。それ自体は悪いことではありません。彼らは人に依存しないで、万事自分のことは自分で取り仕切ろうとします。しかし生きていく以上、何らかの形で他人と関わらざるを得ません。そこで道具的人間関係を張り巡らせるのです。
道具的人間関係は、人間関係をすべて己の欲求充足の手段としてゆく態度です。例えばテニスをすためには相手が要ります。しかしその相手を特定の人に限定しない。今日の相手がいなくなっても、明日、相手を見つければよい、ということです。それで、テニスをしたいという自分の欲求は満たされます。そのほかクラブ仲間、勉強仲間、遊び仲間と、必要に応じて相手を選び替えてゆけば、この人でなければ自分の欲求を満たせない、という窮屈な状況はなくなります。その意味で、誰にも拘束されない自由な、それだけ主体的なありように思えます。だから、深いかけがえのない関係はことさら避けられます。その人でなければ自分の大切な欲求が満たせないのでは、まるっきりその人に依存することになるし、場合によっては支配されかねないからです。
しかし、こうした道具的人間関係の要に自分がすべて、万事自分中心で事が足りるようになったとき、実は思わぬ落とし穴にはまりこんでいることに気づかざるを得ません。というのは、付き合う相手がすべて欲求充足の道具にしかすぎないとすれば、相手から見た自分も同様に単なる道具的存在に他ならない、ということだからです。私たちは、他者によってかけ替えのない存在として扱われない限り、おのれのかけ替えのなさを感じることはできません。現代の多くの著者たちは、道具的人間関係を通して、おのれの自立を確かめたはずのそのときに、おのれのかけ替えのなさ、いわば存在の基盤を感じることができなくなってしまっているのです。それが、生活そのものに別に不満はないけれども、何かもう一つ充実感がない、という彼らの感慨につながっています。
現代の若者たちー皆さん方のことでもありますーについてもう一つ言っておきたいのは、何事にも縛られることなく自由に自分らしく生きたい、という態度です。彼らは、「しなければならないこと」をできるだけ排除しようとしてきました。そして現在、ある程度それに成功しています。しかしその結果、してもしなくてもどうでもよいことばかり残りました。何をするかはそのときの気まぐれ次第です。自分の責任で一つのものを選び取る—その際、常に何かが失われます—決意をすることができません。しかし、これこそが主体性の証なのです。だから彼らは自由な主体的ありようを求めたはずなのに、結果的には主体性の自己放棄に陥っているのです。これもまた、彼らが現在方向性を見失っている一つの理由です。