心理学 浦 光一 二(多)重人格 3
二(多)重人格
二(多)重人格については耳にしたことがあると思います。何年か前、宮崎某による連続幼女殺害事件がありました。信頼できる精神科医の精神鑑定の結果は、三つに割れました。性格障害、統合失調症、二重人格です。だからといって、どれが正しく、どれが間違っているとはいえません。どの鑑定にもそれなりの根拠はあり、どこに重点を置いたかによる差に過ぎない、といえるからです(和田、1998)。鑑定結果は公表されていますから、神戸の小学生殺しのような歯切れの悪さはありません。二重人格というのは、この犯人が殺害の前後に奇妙な体験をし、それから後のことを覚えていないこと、、女の名前で手紙を書いて、その筆跡や内容がふだんの犯人からは考えにくい上、やはり書いたことを思い出せないこと、などが理由だったと思います。(内沼、1995)。
心で思っていることと実際にやっていることが正反対だから自分は二重人格だ、という人がいますが、こういう人は二重人格ではありません。思っていることもやっていることも、はっきり自分のこととして意識されているからです。人間には矛盾したところがいくらもありますから、二つの気持ちに引き裂かれて苦しむことは、当たり前です。ある程度うわべを取り繕いたいし、ある程度本音も出したい。それをどの辺でバランスを取るかで悩むのが人間というものでしょう。その葛藤に耐えかねた人が、後にも述べるさまざまな心理学的問題を露呈する、ともいえるのです。
二(多)重人格の場合、もともとの人格(第一人格と呼ばれます)はもう一方の人格(第二人格)のしていることを知らないことが多いのです。ただし第二人格は第一人格のことを知っているのが普通です。だから第二人格が出現している時、第一人格は意識を失っている、といえます。そこで第二人格が第一人格に戻ったとき、第二人格の引き起こしたことを思い出すことはまったくできません。だから、街で見知らぬ人に親しげに声を掛けられたり、趣味に合わぬ買った覚えのない服が洋服ダンスにぶら下がっていて、驚くことが多いのです。「私の中の他人」(セグベンとクレっクレー、1973)では、ふだんまじめでおとなしいしゅふが医師の前で突如第二人格に変わり、「ヘーイ、ドク」と、第一人格からは考えられないような無遠慮なやり取りを始める様子が、生き生きと描かれています。
しかし二重人格とはめったに起こらない現象で、精神科医やカウンセラーでも実際に出会うことはほとんどなく、たまにそういう人が現れると直ぐに報告され、世界中の専門家の共通の知識になるのが普通でした。しかしここ二十年くらいのことでしょうか。特にアメリカとカナダでおびただしい数の多重人格の症例が報告されるようになりました。専門家の書いたものではありませんが、わが国でも評判になった『二十四人のビリー・ミリガン』はその一例です。ミリガンは二十四重人格で、それだけでも驚きですが、四百重人格という報告もあって、こうなるとどう考えてよいのか、専門家でも首を傾けたくなります。しかし報告で見る限り、実際に患者と面接し、目の前で人格転換の現象に接すると、それまで最も疑い深かった人が逆に最も熱心な信者になるそうですから、今までそういう人に会ったことのない私達は何とも言えないところです。