影 shadow
1945年、ユングは非常に直接的で明晰な定着を影に与えました。すなわち、影とは「そうなりたいという願望を抱くことのないもの」です。この簡潔な表現の中に、影について繰り返し語ったさまざまな意味がすべて包摂されています。たとえば、人格の否定的側面、隠したいとおもう不愉快な性質すべて、人間本性に備わる劣等で無価値な原始的側面、自分の中の「他者」、自分自身の暗い側面などである。
ユングは人の生における悪という現実を十分認識していました。
私たちはみな影をもつこと、実態あるものは必ず影をもつこと、自我と影は、光とその影に対応すること。影こそがわれわれを人間らしくさせることなど、ユングは繰り返し強調しました。
「誰もがみな影を担い、個人の意識的な生活の中で影を実体化する度合いが低くなればなるほど、影はより暗く濃密になります。もし劣等な部分が意識されれば、人はそれを修正する機会をつねにもちます。さらに、その場合、劣等な部分が他のさまざまな関心といつも触れあい、ずっと変化しつづけます。しかし、もし劣等な部分が抑圧され、意識から離れて孤立するから、けっして修正されることなく、気づかぬうちに表に突然現れやすい。あらゆる点で、それは無意識の思わぬ障害となり、われわれのもっとも善意に満ちたもくろみを邪魔します。
人間のこころの光と闇の側面が分裂していることを、現代に生きる人びとに気づかせた功績はフロイトにある。とユングは認めました。フロイトがなんら宗教的意図にかかわりない科学的視点からこの問題に取り組み、西洋キリスト教文明の啓蒙的楽観主義と、科学の時代が覆い隠そうと努めた人間性にひそむ暗黒の淵をあらわにした、とユングは受けとりました。ユングはフロイトの方法が、これまでなされた影の分析の中でもっとも詳細で深いと述べています。
ユングは、フロイト派のアプローチに限界があると気づき、それとは異なった仕方で自分は影を扱うとはっきり述べました。影が生きた人格の一部であり、なんらかの形で「人格は影とともに生きることを望む」ことを認識し、まず第一に、影を個人的無意識内容と同一とみなしました。このような無意識内容を扱うと、人は本能との折りあいをつけざるをえず、本能の表出が集合的なものによる統制にどのように従ってきたかに馴染んでいかねばならなくなります。その上、個人的無意識の内容は、集合的無意識の元型的内容と分かちがたく融合しており、集合的内容自体、自身の暗い側面を含みもつのです。言い換えれば、影の根絶は無理です。それゆえ、分析心理学者は「影と折りあいをつける」という表現を用いて、分析中の影と直面するプロセスを表すことが非常に多いのです。
影が元型であるとき、その内容は強力で、情動によって特徴づけられ、自律的で、とりついて離れず、逃れようのない力をもちます。すなわち、秩序立った自我を驚愕させ、圧倒する力を持ちます。意識に入りこむ力をもつ内容すべてそうであるように、影の内容は、はじめ投影に現れます。しかも、意識が脅かされた状態や疑いに満ちた状態にあるとき、影は、肯定的にも否定的にも、身近な人にたいする強力で非合理な投影となって現れます。この点にユングは、なぜ個人的な好き嫌いが生じるのかだけでなく、現代の残酷な偏見や迫実についても納得のいく説明を見出しました。
影に関するかぎり、影のイメージを意識化し、個人の生活の中で影の投影をもっとも生みやすい状況を認識することが、心理療法の目的となります。影を認めること(分析すること)は、影の強制的な支配力を断つことです。