ペルソナ(persona)
ギリシャ・ローマ時代に役者がつけた仮面のラテン語にこの言葉の起源があります。したがってペルソナは、人が世界と立ち向かうときに身につける仮面、もしくは顔を表します。ペルソナは性別同一性、発達段階(たとえば青年期)、社会的地位、仕事や職業などを意味することがあります。一生を通じて多くのペルソナが身につけられ、あるときには、いくつかを同時にあわせもつこともあります。
ユングのペルソナについての考えは、それを一つの現別とするところにあります。この文脈でいえば、ペルソナには逆らいがたさと普遍性があります。どのような社会であれ、関係性と交換を促進するための手段が必要です。そして、この機能は、その社会に関与する個人のペルソナによって、ある程度遂行されます。個々の社会がそれぞれにペルソナの基準を形成し、時代を経て変化し、展開します。というのも、背後にある元型パターンは、表に現れる無限の変化形態を受け入れやすいからです。共同体に住まうのに適切なあらゆる妥協を巻き込む「社会的元型」として、ペルソナを語ることもあります。
したがって、ペルソナが本質的に病理的だとか誤りだとはみなせません。人が自分のペルソナとあまりに密着し、同一化したとき、病理の危険性が生まれる。この危険な事態に内在するのは、社会的役割(弁護士、分析家、労働者)、性役割(母親)などを超えた多くのものに気づかないこと、成熟を考慮に入れ忘れること(例えば、大人になったという事実に明らかに適応できていないといった)です。ペルソナとの同一化は、心理的な堅さや脆さを形成すします。つまり、無意識が、扱いやすい形で意識に現れず、むしろ突如として噴出しがちになる。ペルソナと同一化した自我は、外的な自分の位置づけしかできなくなります。内的なできごとに盲目となり、それに応じきれません。したがって、自分自身のペルソナにたいして、無意識のままなこともあります。
この最後に述べた点は、ユングがこころの構造の中に当てたペルソナの位置を示しています。それは、自我と外界との仲介としての位置であると。ペルソナとのアニマ・アニムスは、それゆえ、対立するものとみなせます。ペルソナが意識的、集合的な適応にかかわるのにたいし、アニマ・アニムスは個人的、内的で個別的なものへの適応にかかわります。