自己 (SELF)
人のもっとも充実した潜在力と、全体としての人格の統一快の元型的イメージ。自己は、人の心の内なる統合原理として、こころの生活におりる中心的で威厳のある立替を占め、したがって個人の運命を握ります。
ユングは、こころの生活を開く第一歩として自己を守るかと思える。一方で、自己の実現を目標のようにも取り扱う。自己は経験的な概念であり、哲学もしくは神業的論述ではないとユングは強調しました。しかし、ユングの考えと宗教的仮説との類似性は、明確にする必要があっただろう。神イメージとの類似性を切り離して自己の概念は論じられません。その結果、分析心理学は、人間の宗教的性質を認める自己の概念を進んで受け入れる者と、このような心理学的論述は受け入れがたいとする医者、科学者、宗教的教条主義者とに、同事に出会うことになります。
「自己は、単に中心というだけではなく、意識や無意識も包括すべく、全体を囲いこみます。すなわち、自我が意識的な心の中心であるように、自己は、その全体の中心です」とユングは述べました。人生において、自己は、認識され、統合され実現されることを求めます。しかし、人間の意識という限られた領域では、その広大な全体の断片以上のものを統合することは望めない。したがって、自我と自己の関係は、終わりのないプロセスです。自我が、柔軟で、意識的な個としての境界線(元型的、無意識的境界線に対立する)をしっかりと維持できなければ、肥大化の危険性がこのプロセスにつきまといます。自我と自己の生涯にわたるこの相互作用は、自我と自己が相互に照らしあう、止まることのないプロセスを伴い、個人の人生という個体性においてその表現の道を見い出します。
自己は恵み深いものだとしか考えないのは誤りである。そうならないよう、良心をもたない決定的な力として自己は悪魔にもたとえられます。とユングは強調しました。すなわち倫理的決断は人間に残され。したがって、たとえば、夢を通じてやってくる自己の介入に関連して自分の決断や行動にできかぎり意識的でなければならないとユングは警告しました。その場合、積極的に自己の介入に応じても、それは単に元型に従属したことにはならず、自分の気紛れに従ったことにもならない。あるいは、自己の介入を退けても、そのことで自分自身の積極的関与を無効にした事実を意識でき、さらに、非常に価値のある機会を逃した可能性も意識できます。このような識別を実行する力が、意識の機能です。
ユングの考えを概念的に詳しく追うと、自己は、対立するものの緊張を調整し、相対化し、仲介する元型的衝動と定義できます自己を通じて、私たちは善と悪、もしくは人間的なものと神的なものの二元性と直面する。この相互作用にとって、一貫性を欠いて見える生のさまざまな要請を前に、最大限の人間的自由を遂行することが必要になる。そして、唯一最終的な調停役は、意味の発見です。聖職者の仲介を抜きにしてそのようなメージを統合す能力があのかとの疑問を、牧師から投げかけられ、また神学者は、肯定的な要素も否定的な要素もともに神イメージの中に含むことを批判した。しかし、ユングは強く自分の立場を守り、キリスト教が「善」のみを強調したため、西洋人は自分自身の中で疎外され分類されたのだと指摘しました。
自己の象徴は、しばしばヌミノース性をもち、必然感がそこに伴う。したがって、こころの生活における超越的優先権が自己に付与される。その象徴には神イメージのもつ威信がある。ユングは、錬金術師がラピスについて述べることが心理学的にみると明らかに自己の原型を記述していると感じました。自己がこころに顕在化することを体験的に知っているとユングは主張したが、その目的の究極の源泉に関して、彼は一切言明を避けました。
自己についてのユングの理論的には仕事は、発達的な概念として拡大され、使われています。
一時的ないし原動的な自己が人生のはじまりから存在する。という仮説がそこでは提起される。この一時的自己は、生得的、元型的な潜在力をすべて含み、個々の人間がそこに表現の道を与える。適切な環境のもとに、この潜在力が、原初の無意識的統合から立ち現れる脱統合のプロセスを切り開く。この潜在力は外界に対応するものを求める。幼児の活発な元型的潜在力と、母親のそれに応じた反応とが「つがう」ことで、それらが内面化した対象となって再統合されます。この脱統合と再統合のプロセスは生涯にわたって続く。
幼児期には、脱統合によって引き起こされた興奮の大きさが、再統合に益する長い眠りの期間を必要とする。脱統合体に含まれる自我の諸断片が、次第に凝集し、自我を形成していく。一時的自己には、それ自体の防衛態勢があるとされ、それがとりわけ顕著に作用するのは幼児の側からみて、環境的な欠損がみられる状況においてです。この防衛は、外からの攻撃や迫害感から自己を守るだけでなく、満たされない期待や、攻撃と感じられるはくばく経験に応じた、統制できない怒りによって内なる爆発が生じることへの恐怖からも自己を守る。
「自己は、単に中心というだけではなく、意識や無意識も包括すべく、全体を囲いこみます。すなわち、自我が意識的な心の中心であるように、自己は、その全体の中心です」とユングは述べました。人生において、自己は、認識され、統合され実現されることを求めます。しかし、人間の意識という限られた領域では、その広大な全体の断片以上のものを統合することは望めない。したがって、自我と自己の関係は、終わりのないプロセスです。自我が、柔軟で、意識的な個としての境界線(元型的、無意識的境界線に対立する)をしっかりと維持できなければ、肥大化の危険性がこのプロセスにつきまといます。自我と自己の生涯にわたるこの相互作用は、自我と自己が相互に照らしあう、止まることのないプロセスを伴い、個人の人生という個体性においてその表現の道を見い出します。
自己は恵み深いものだとしか考えないのは誤りである。そうならないよう、良心をもたない決定的な力として自己は悪魔にもたとえられます。とユングは強調しました。すなわち倫理的決断は人間に残され。したがって、たとえば、夢を通じてやってくる自己の介入に関連して自分の決断や行動にできかぎり意識的でなければならないとユングは警告しました。その場合、積極的に自己の介入に応じても、それは単に元型に従属したことにはならず、自分の気紛れに従ったことにもならない。あるいは、自己の介入を退けても、そのことで自分自身の積極的関与を無効にした事実を意識でき、さらに、非常に価値のある機会を逃した可能性も意識できます。このような識別を実行する力が、意識の機能です。
ユングの考えを概念的に詳しく追うと、自己は、対立するものの緊張を調整し、相対化し、仲介する元型的衝動と定義できます自己を通じて、私たちは善と悪、もしくは人間的なものと神的なものの二元性と直面する。この相互作用にとって、一貫性を欠いて見える生のさまざまな要請を前に、最大限の人間的自由を遂行することが必要になる。そして、唯一最終的な調停役は、意味の発見です。聖職者の仲介を抜きにしてそのようなメージを統合す能力があのかとの疑問を、牧師から投げかけられ、また神学者は、肯定的な要素も否定的な要素もともに神イメージの中に含むことを批判した。しかし、ユングは強く自分の立場を守り、キリスト教が「善」のみを強調したため、西洋人は自分自身の中で疎外され分類されたと指摘した。
自己の象徴は、しばしばヌミノース性をもち、必然感がそこに伴う。したがって、こころの生活における超越的優先権が自己に付与される。その象徴には神イメージのもつ威信がある。ユングは、錬金術師がラピスについて述べることが心理学的にみると明らかに自己の原型を記述していると感じました。自己がこころに顕在化することを体験的に知っているとユングは主張したが、その目的の究極の源泉に関して、彼は一切言明を避けました。
自己についてのユングの理論的な仕事は、発達的な概念として拡大され、使われています。
一時的ないし原動的な自己が人生のはじまりから存在する。という仮説がそこでは提起される。この一時的自己は、生得的、元型的な潜在力をすべて含み、個々の人間がそこに表現の道を与える。適切な環境のもとに、この潜在力が、原初の無意識的統合から立ち現れる脱統合のプロセスを切り開く。この潜在力は外界に対応するものを求める。幼児の活発な元型的潜在力と、母親のそれに応じた反応とが「つがう」ことで、それらが内面化した対象となって再統合されます。この脱統合と再統合のプロセスは生涯にわたって続く。
幼児期には、脱統合によって引き起こされた興奮の大きさが、再統合に益する長い眠りの期間を必要とする。脱統合体に含まれる自我の諸断片が、次第に凝集し、自我を形成していく。一時的自己には、それ自体の防衛態勢があるとされ、それがとりわけ顕著に作用するのは幼児の側からみて、環境的な欠損がみられる状況においてです。この防衛は、外からの攻撃や迫害感から自己を守るだけでなく、満たされない期待や、攻撃と応じられるはくばく経験に応じた、統制できない怒りによって内なる爆発が生じることへの恐怖からも自己を守る。
フォーダムによると、自我防衛と同様、自己の防衛も正常とみなせる。しかし、この防衛が持続し、ゆるがぬものになりすぎると、万能感への傾向が発達し、誇大感や硬さにつながります。すなわち、自己愛人格障害を招きます。あるいは、自閉症が結果として生み出されます。いずれの場合も、他者性そのものが迫害的と感じとられ、関係性による満足から個人が切り離されています。
ノイマンも、ユングの考えを発達に応用した一人です。ノイマンは、母親を、赤ん坊の自己イメージを無意識的投影において引き受ける者、さらには、赤ん坊の自己「として」機能する者と考えました。幼児期に子どもは成人の自己の特徴を経験できず、母親が子どもの自己性の「鏡」として働き、反射します。はじめての意識的な自己の経験は、母親を知覚することと、母親と相互に働きあうことから生じます。ノイマンの主張を敷衍すると、赤ん坊が母親からしだいに分離することと自我が自己から離脱することが対比され、母親との関係について発展させたイメージが、その後の自己と無意識一般に対するその人の態度の基礎を形作ります。
自己について、分析心理学者の間でも概念的な違いが明らかにみられます。自己を有機体の統合の原初的状態として定義するものもいれば、上位の統合原理のイメージとしてそれを捉える者もいます。いずれの立場も、個々人の人格は、自己のうちに抱かれた元型的潜在力「から立ち現れる」というユングがしばしば述べた考えを利用しています。ノイマンの仕事は、想像的アプローチのしかたを表し、一方、フォーダムの考えは一つのモデルを提供します。