心理学 浦 光一意識について 2
意識について
動物には人間よりも鋭く広い感覚(知覚機能)が備わっているけれども、それを意識と呼べるかどうか難しいことを述べました。すると人間の赤ちゃんの場合はどうなのでしょう。赤ちゃんはお母さんのお腹にいる時から、今まで考えられていた以上の知覚能力をもっていることが、最近知られてきました。しかし、それを意識と言えるかどうかは、動物の場合と同じく疑問でしょう。ところが3、4歳になると、子どもははっきり意識をもっているとといえると思います。定義の仕方によりますが、自分が他人と違うことはちゃんとわかっているのですから、意識とは自分を他ならぬ自分として気づくことだ、と考えられます。つまり自分意識、難しくいえば、自我意識の成立を意識以外のものをさしていますから、自分に気づくとは、自分以外の存在に気づくことでもあります。ということは、意識の成立と同時に、客観世界も意識されるのです。つまり私たちが意識するとは、自分を対象以外のものとして知る。逆にいえば対象を自分以外のものとして知ることです。この場合、自分自身をも対象として意識できるところがおもしろい。
動物の場合、生得的に備わった反射機能に基づいて、外部の刺激に対して適切に反応しますが、対象を対象として、つまり自分とは別の客体として”意識”しているとは思えません。単細胞アメーバのいる液体に栄養物を入れると、アメーバたちは寄ってきます。ある種の殻を入れると離れていきます。植物の根は水のある方向に伸びてゆく。ヒマワリの花は太陽を追って回ります。いずれもそれなりの弁別力はあるのですが、これを意識とは呼びにくい(定義によっては意識と言えなくもありません)。その限り動物たちは、どれほど優れた知覚弁別の能力をもっていても、無意識状態にいることになります。
意識とは、主体としての自分が客体としての対象に気づくことです。今までの主客本分化な混沌とした世界(ただし、混沌というのは、すでに主体、すなわち意識が成立し、そこから客観世界を見た場合の印象で、意識以前の状態では、一種調和的な世界との一体感しかないものと思われます)が、主体を中心とした整然とした世界に秩序づけられてゆく、それが意識化のプロセスです。しかし、ここで大切なことは、にもかかわらず客観世界には常に未知の部分が残ることです。それはひとつには宇宙の果てはどうなっているのか、といった物理的な問題ですが、もうひとつは、客体としての自分を考えている自分を、さらに客体として考えることはできますが、そう考えている主体としての自分は、どこまでいっても経験する主体として残ります。だから究極的には主体としての自分を客体として捉えることができません。
しかし、そういう主体のあることは多かれ少なかれ感じられている―ある意味では意識されている—ところがおもしろい。いずれにしろ意識の成立が、自分をも含めて世界を客体として捉えることを可能にし、それが私たちの、自分および客観世界の理解を飛躍的に拡大させたのですが、そのことが同時に、どうしても客体化、つまり意識化することのできぬ部分のあることに気づかせもしたのです。先に、自我の成立が同時に客観世界の出現でもあったことを述べましたが、意識の成立が同時に無意識の存在に気づかせたといってもよいでしょう。
しかし私たちは、意識していることしか意識できないだから、なかなか無意識に気づくことができません。普通、意識的には訳のわからぬことが起こり、初めて無意識の働きがわかることが多いのです。体についていえば、私たちは内臓の働きなど、ふだんまったく意識していませんが、その働きに故障が生じると痛みとか圧迫感などが感じられて、その程度には意識できるようになります。だから無意識の働きも、意識との関わりが何とかスムーズに働いている間はあまり意識されないのですが、どこかでバランスが崩れたとき、異常なものとして意識化される、と考えてよいのかも知れません。